「天才」と呼ばれた人が、本物の「天才」に出会ったとき

神童東大生「オレは大したことない」

誰よりも頭がいい、そう信じていたが、上には上がいた「天才」と呼ばれた人が、本物の「天才」に出会ったとき

人間は、己を超える圧倒的な才能と出会ったとき、自己を客観視して成長する。「天才」たちにも若き日の敗北体験があり、それを乗り越えたからこそ今がある。

世の中には「天才」と呼ばれる人たちがいる。私立灘高校から東大数学科に進み、現在はエコール・ポリテクニーク(フランスの理工系大学のトップでカルロス・ゴーンの母校)の助教授を務める郡山幸雄(38歳)もその一人だろう。

郡山にとって、東大入試は「朝起きて歯を磨く」程度の、緊張感のないイベントだった。

「数学で6問(120点満点)中4~5問は確実に解けるので、それだけで他の受験生に50点近く差をつけられる。合格最低点が300点ちょっとの試験だから、他の科目で少々失敗しても、落ちる可能性は100%なかったんです」

〔PHOTO〕iStock
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今年も東大理Ⅲ(定員約100名)に27名の合格者を送り込んだ灘高は、全国で最も数学のレベルが高い進学校として知られる。だが、その灘高でも、郡山の数学の力は別格だった。

「まんべんなく勉強して通信簿がオール10の同級生がいて、周囲に『すごい』とか言われてたけど、僕はそうは思わなかった。コツコツ暗記して点数を上げることに興味が持てなかったんですね。それより、『いかに物語性のある解き方で数学の難問を解くか』を考えるのが好きだった。

正直言って、灘高では、こいつにはかなわないと思う同級生は一人もいませんでした」

数学では誰にも負けない、もっと言えば「次元が違う」とわかっていたからこその自信だった。「あの頃の僕は傲慢でしたね」と郡山は振り返って言う。

高校1年の冬、郡山は数学オリンピックの日本大会に初めて参加する。50倍以上の予選をくぐり抜けて20名の「日本代表候補」に入り、6名の日本代表を選ぶための合宿に参加した。そして、その合宿で、郡山は劇的な体験をすることになる。

「生まれて初めて、『こいつには勝てない』と思う人間に出会いました。数学オリンピックは受験数学とは違って、見たことのない問題にどうアタックするかの世界なんですが、僕が手も足も出ない整数論の問題を、パッパッといろんなアイデアを出して解くやつがいた」

凡人には理解できない領域だが、数学はあるレベルを超えると「見える」「見えない」という表現で語られる。日本人が日本語の文章を読んで「文法が正しいかどうか」を判断するのと同じ感覚で、彼らには数式の正誤が「見える」という。

「その意味では、16歳の僕に『見えない』世界が、確実に『見えている』奴がいることに衝撃を受けたんです。その時の気持ちは、負けた悔しさと、『こんなすごいやつがいるんだ』という感動の半々でした」

なかでも際立っていたのが、筑波大附属駒場高校から来ていた、郡山と同じ高校1年生の児玉大樹だった。児玉は解法のアイデアの豊富さから、合宿では「魔法使い」というあだ名で呼ばれていた。

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「それまで誰にも負けたことがなかったのに、児玉との歴然たる差を突きつけられた。敗北を認めるという意味では、あれが人生で初めての『挫折』でした」

合宿の結果、郡山は最終6名の選から漏れ、児玉は残った。そして児玉はスウェーデンで開かれた第32回数学オリンピックで、銀メダル(上位4分の1)を獲得、さらに翌年のモスクワ大会で、日本人初となる金メダル(上位12分の1)受賞者となるのだった。

2年後—。前述のように「当たり前に」東大に合格した郡山は、そこで児玉と再会し、ともに東大数学科に進むことになる。

「東大数学科でも児玉は別格で、学部時代(3~4年)の成績がオール優だったと思う。それはもう、普通に勉強するだけでは不可能な領域で、やはり勝てないと改めて思いました。二十歳で2度目の敗北を味わったわけです」

だが結果的に、児玉との再会が郡山の生きる道を決めることになる。

「ああ、俺は別のことをやろう、と。つまり、純粋数学の研究者として児玉のような大天才と競う道ではなく、自分の得意分野を伸ばそうと決意したんです」

郡山にとってそれは、社会と交わって生きる、ということだった。大学1~2年時に小学生向けの算数の参考書を出版し、3~4年時には塾を作ってカリキュラムを組んだ。世間と接点を持つことに関しては、数学の大天才たちより自分のほうが秀でていることにも気づいた。

「フランスに留学して経済学に出会い、これだ、と思いました。数学オタクになるんじゃなくて、もっと世の中に貢献できることを勉強しようと思った時、経済学、それもミクロ経済学がピッタリだったんです。

僕が自分の進む方向性を決められたのは、児玉に会って『勝てない』と気づかされたおかげです。子供の頃から憧れていた数学者になれなかった、それは確かに挫折かもしれない。でもその挫折を学生時代に経験したおかげで、僕はより自分に合った道を見つけられた気がします」

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バカと天才は紙一重

2人の出会いの場となった数学オリンピック日本チームのコーチで、ハンガリー出身の世界的な数学者、ピーター・フランクル(60歳)は、来日以前に出会ったタイプの異なる2人の天才の名前を挙げる。

「私が人生で初めて出会った天才は、ラースロー・ロヴァース氏でした。彼はハンガリーのオトボス大学の先輩で、驚異的に頭の回転が早く、一を聞いて十を知るタイプでした。国際数学オリンピックにも4度出場し、3度金メダルをとっている。私も時として天才と呼ばれることがありますが、彼の車のほうが速かった。追いつけないな、と思いましたよ」

圧倒的な処理速度を誇るロヴァースを「頭脳明晰タイプ」とするなら、もう一人の天才は独創的な発想で難事を解決してしまう「ひらめきタイプ」だ。フランクルは「彼を前にすれば、ロヴァース氏も私も天才とは言えないかもしれない」とまで言う。ボイタ・レードルという数学者がその人である。

「彼と知り合ったのは、私がフランスの国立科学研究センターにいた頃です。数学の国際会議で意気投合し、チェコ工科大学に勤務していた彼とプラハで共同研究をしました。そのときほど、『自分はいくら頭の回転が早くても、所詮努力型だ』と思ったことはなかったですよ」

「バカと天才は紙一重」とはよく言ったもので、レードルは決して優秀な学生ではなかった。むしろ、公式や解法を暗記するような作業を苦手とし、問題を早く正確に解答することもできなかった。だが彼にはそれを補ってあまりある「ひらめき」があった。フランクルは続ける。

「日本の大学の数学科なら、彼は合格すらできなかったでしょう。ただし、どこから手をつけたらいいのかさえ誰もわからないような問題を前にしたとき、彼は誰にも真似できないひらめきで解決することができた。

最も驚いたのは、彼が『アルファベットの文字を見ると、それぞれに色のイメージが浮かぶ』と言っていたことです。例えば『Aは赤、Bは緑、Cは白銀』といった感じです」

こうしてひとつの感覚刺激が、別の感覚刺激を引き起こすことを「共感覚」と言う。画家のレオナルド・ダ・ヴィンチ、物理学者のリチャード・ファインマンなど、天才と呼ばれる人々に多い資質と言われている。

「一般に論理的な思考は言葉や文章で行われますが、彼の場合、イメージや絵が浮かぶ。彼は独創的なひらめきを持つ半面、説明は下手で論文もまとまりが悪かった。これがこのタイプの天才が活躍しにくい理由だと思います。私はそういう部分を補う役割でした。良いコンビでしたよ」

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田中伸明(29歳)は、京都大学理学部を卒業後、'09年の東京大学プログラミングコンテストに優勝した天才プログラマーだ。'12年には世界中で約19万人がプログラミング技術を競う「TopCoder」というWEBコンテストで世界のトップ12人に選ばれ、フロリダに招待された。いわば世界の上位0・006%に属するトッププログラマーなのだ。彼に言わせれば、ネコ男で話題のPC遠隔操作技術さえ、「簡単ではないけど難しくもない。プログラマー全体で見ればトップ1割くらいのレベル」ということになる。

彼が出会った本物の天才は、そのフロリダに招待されたプログラマー12人の中にいた、東京大学理学部数学科4年の副島真(21歳)だ。筑波大附属駒場高校在学中、3年連続で数学オリンピックで金メダルに輝いた数学の天才でもある。しかも3年生時の'09年には世界最高得点を叩きだし、野田聖子科学技術大臣(当時)に感想を問われ「今年は簡単だった」と言い放った伝説の持ち主だ。田中は言う。

「プログラミングのロジックの組み立てや数学的センスはもちろんですが、普段から独特なズレ方をしていて、勝てないと思う。

旅行に行くにしても、『緯度と経度が整数で交わるところに行こう』『県境が3つ交わるところに行こう』と言って普通じゃない。

僕は頭がいい、というのは問題発見能力が高いということだと思うんです。一般に言われる、学校の成績などの頭の良さは、与えられた問題を解決する能力ですが、何もない状態で問題を発見する能力とは根本的に違う。彼は後者の能力が非常に高い」

思考がジャンプする

世界には様々な天才発明家たちが存在する。39歳にして、NTTの研究員からマサチューセッツ工科大学メディアラボに転身し、教授となった情報工学者・石井裕(57歳)が天才として挙げたのは、コンピュータのマウスを開発したことで知られる発明家、ダグラス・エンゲルバート(88歳)である。

「アウトラインプロセッサー、マルチウィンドウ、ハイパーテキストなど、彼が45年前に発明したコンピュータ技術のデモは、いま見ても新鮮です。45年もの間、コンピュータの世界には彼の発明を超える進歩はなかったわけです。

そんな彼が一度だけ私のラボを訪れたことがありました。私はここぞとばかりに発明品のデモを見せました。彼は目を輝かせて賛辞を贈ってくれました。あれは私の最大の自慢であり、最高の瞬間でした」

世界最速の電気自動車「Eliica」を開発した慶応義塾大学名誉教授の清水浩は、天才にはまず「3つのP」が必要だと言う。

「まず、書類を書く能力である『ペーパー』、そしてそれをどう表現するかという『パフォーマンス』、最後に人とうまくやれるかという『パーソナリティ』です。この3つは一般社会におけるエリートの条件。天才はこれに加え、思考の飛躍『ジャンプ』ができ、それを具現化できることが条件になる。思考が一見脈絡もないところにジャンプできる人というのは、実に少なく、それに成功できる人というのはさらに少ない」

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清水が挙げた天才の名前は、意外なものだった。

「ベネッセ会長の福武總一郎さん(87歳)です。家業の福武書店を継ぎ、ここまで発展させただけでなく、突然介護ビジネスを始めたり、英会話のベルリッツを買収する。まさに思考がジャンプしている。

出会いは4年前です。突然『電気自動車が見たい』と研究室に来られました。そのときの決断の早さには驚きました。試乗して急加速を体感すると、『これはモノになる。すぐに会社をつくりなさい』と出資をして方向性を示したきり、事業にはまるで口を出さない。こういう人が天才として成功を収めるのだな、と感心しました」

天才もひれ伏す大天才の共通点、それは常人には決して見えない「景色」が見えていることのようだ。

「週刊現代」2013年4月20日号より

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