最近、「自然死」とか「平穏死」という言葉をよく耳にする。以下、合わせて自然死とするが、自然死とは、平たく言えば、ほとんど医療を行わない死である。もちろん、見放したり、ほったらかしにするのではない。治療はせず、温かく見守りながら看取るのである。
私は外務省の医務官を務めたあと老人医療の世界に入り、在宅医療のクリニックに勤務して、多くの患者を家で看取ってきた。その経験から、自然死には大いに共鳴している。
死は恐ろしくて苦しいから、何とか治療をしてほしいというのが一般の感覚かもしれないが、今は医療が進みすぎたため、治療が死を逆に悲惨なものに変える危険が高まった。だから、何もしないで見守るのがよいのである。
私事で恐縮だが、私の父はかねてから自然死を望んでおり、その言葉の通り死を目前にして、治療らしいことは何もしなかった。家族も父の死を受け入れ、穏やかに見守りながらそのときを待った。ところが、世の中は思い通りにならないもので、父は今も死なずに療養を続けている。その経験を踏まえて、自然死の実際を考えてみたい。
自然死のための条件とは
一九七○年代ごろまでは、医療はまだまだ非力だったので、それほど人の死を妨げることはなかった。ところが、八○年代以降、さまざまな延命治療が発達し、患者が簡単に死ななくなってしまった。「死なせない医療」の登場である。これは「生かす医療」とは似て非なるものだ。
患者は意識もなく、身動きもならず、身体に何本もチューブを入れられ、器械と薬で無理やり心臓を動かされるというきわめて非人間的な状態となる。最悪の場合は腕や脚が丸太のようにむくみ、まぶたはゴルフボールのように腫れ上がり、口、鼻、耳から出血し、肛門からはコールタールのような下血があふれ、黄疸で皮膚は黄褐色になり、部屋には悪臭が満ち、見るも無惨な状態になりながら、命を引き延ばされる。
もちろん、医師とて、むごたらしい状況になることがわかっていて延命治療をはじめるわけではない。「一パーセントでも助かる見込みがあるなら、ベストを尽くしてください」という患者や家族の思いに応えて行うのだ。しかし、延命治療の九九パーセントは、大きなマイナスになる危険をはらんでいる。やらないほうが賢明だと思えることも多いが、患者側が強く求めるとやらざるを得なくなる。(*1)
在宅医療では、医師や看護師が患者の家に行っても、高度な治療ができるわけではない。せいぜい鎮静剤の投与や点滴くらいだが、それとて死にゆく患者にはほとんど意味がない。(*2)
だから、私が在宅で患者を看取るときには、かなり早い段階から死を受け入れるように話を進める。受け入れができると、次のステップとして、家族に死までのおよその経過を説明する。
「食事の量が減ってきて、水分も摂らなくなり、排尿も排便も減って、血圧も下がり、徐々に意識も薄れていきます。それはすべて自然で順調な経過です。食べる量が減ってきたからといって無理に食べさせたり、水分が足りないからと点滴をしたりすると、逆に本人を苦しめることになります。薬や注射もほとんど必要ありませんし、本人の苦痛さえなければ、血尿とか血痰などがあっても、心配することはありません」
あらかじめそんなふうに説明しておくと、本人も家族も落ち着き、少々のことで不安がったりしなくなる。
実際、私が在宅で看取った患者は、ほとんどさほどの苦しみもなく逝き、見送った家族も悲しみはあるものの、ある種の充足と納得を感じているようだった。
そんな望ましい自然死が、なぜ世間にまだ十分広まらないのか。答えは簡単で、自然死の必須条件である「死の受容」が簡単にできないからだ。
*2) 点滴は、心臓や腎臓が弱っている患者にはむしろ負担となる。無駄な点滴で肺に水分があふれる「肺水腫」になると、畳の上で溺死するにも近い残酷な状況となってしまう。
経験的には、死にゆく当人は比較的素直に死を受け入れる人が多いようである。ところが、家族はそう簡単にはあきらめられない。あれこれ治療を求め、検査を望み、何とか死を遠ざけようとする。それは自分が悲しみたくないという気持にほかならないが、家族自身は患者のためだと思い込んでいるので、なかなかブレーキがかからないし、逆効果にもなりやすい。
大切な家族の死がつらいのは当然のことだが、その感情に振りまわされていては、当人の死がいっそうつらくなる。だから、あらかじめ心の準備をして、今のうちに精いっぱい親孝行なり、配偶者を大切にするなりしておくべきである。
医療嫌いの医師
さて、前置きが長くなったが、自然死を望む私の父のことを書いてみたい。
父は一九二六年の生まれで、現在八十六歳。もともとは外科医だったが、勤務していた国立大阪病院(当時)に麻酔科が新設されるときに移籍し、以後、麻酔科医として六十五歳の定年まで勤め上げた。
定年後は仕事をすっぱりやめ、悠々自適の生活を送っていた。父は運転免許を持たず、ゴルフも麻雀もせず、アルコールにも弱く、女性にもモテなかったので、いわゆる"飲む打つ買う"に縁のない人間だった。かといって仕事一筋だったわけでもなく、それどころか定年が近づくと、その日を指折り数えて待っているような状況だった。
当時、私は外務省の医務官という仕事で、サウジアラビアの日本大使館に勤務していたが、父からの手紙はいつも、「あと○○日で定年や」という文句ではじまっていた。そして、定年を迎えたあとは、「今日で三十連休や」「百連休や」などと書いて、私をうらやましがらせた。
父は医師でありながら、一貫して近代医療に批判的だったが、それは麻酔科医だったことが影響しているように思う。麻酔科医は、数多ある科の中で唯一、患者を直接治療しない科である。いわば医療の傍観者で、自分が患者を治したという実感が持ちにくい。逆に、医療が患者に害を及ぼすことには客観的な目を向けられる。だから、「医者は病気を治したつもりでいるが、たいていは患者が勝手に治ったんや」というようなことをよく言っていた。
ほかにも、私が子どものころ、父が母に「外科医がいらんことをするから、患者の容態が悪くなった」「また外科医が無茶な手術をして、患者を死なせよった」などと言っていたのを覚えている。
父は、人間には動物と同じく自然に病気を治す力が備わっているので、医療がよけいな手出しをしないほうがいいという考えの持ち主だった。外科医が多くの患者を死なせながら、助けた患者のことばかり念頭に置いていることに、ムカついていたのかもしれない。
医師にあるまじき糖尿病の放置
そんな父の医療嫌いは、自分の病気にも発揮された。
父は三十代の半ばで糖尿病を指摘され、専門医の指示通りに食事療法をはじめたのに、いっこうに血糖値が下がらなかった。原因は食べたいものが食べられないストレスのせいだと、父は自己判断した。戦中派の父は、子どものころに飢餓体験があり、食事を制限されることに耐え難い苦痛を感じていたのである。
苦しみながら食事を制限しても効果がないので、父はすっぱり食事療法をやめた。ストレスのない状態にしたほうが身体によいと考えたのだ。肝心の血糖値については、検査しないという方針にした。検査で一喜一憂することが身体に悪いという判断である。
以来、父は三十年以上、好き放題に食べて、コーヒーにも砂糖を三杯入れ、清涼飲料も飲み放題で、タバコも制限なく吸った。口渇、多飲、多尿という糖尿病悪化のサインが現れても意に介さず、気ままな生活を続けていた。
その後、私が外務省の仕事でパプアニューギニアにいたとき、父から国内旅行の写真が送られてきた。見ると、別人かと思うほどやせている。驚いて電話をかけると、半年で体重が二十キロ減ったとのことだった。咳が出て、胸の奥が痛いとも言う。
これはてっきり肺がんの末期だなと覚悟したが、父はもともと医療嫌いだし、好き放題生きられればいつ死んでもいいと言っていたので、敢えて病院へ行けとは言わなかった。この状態ではどうせ助からないし、苦しい検査や治療は受けるだけ無駄だと思ったからだ。
それからしばらくして、母から電話があり、父が入院したと知らされた。ついに倒れたかと思ったが、病名は肺がんではなく、糖尿病だった。
父は胸の痛みと、耐え難い全身倦怠感のため、死を覚悟して、地元の市民病院を受診した。父が六十九歳のときである。診察した医師は、血糖の値を見て吃驚したそうだ。血糖の正常値は一一○mg/dl未満で、三○○を超えると糖尿病性昏睡の危険があり、五○○以上ではショック(*3)になりかねない。ところが、父の血糖値は七○○を超えていたからだ。
主治医はその場で緊急入院を命じ、血糖値を下げるためにインスリンを注射した。病室に入ってから、看護師がふたたびチェックすると、血糖値は四○○だった。詳しいことを聞かされていない看護師は仰天したが、父は「それなら大分下がった」と、慌てる看護師をなだめたらしい。
胸の痛みは、何度目かの検査で結核の症状であることが判明した。それで抗結核療法を受け、糖尿病はインスリンの自己注射をすることで、無事、退院した。
不思議な治癒力
その後も父の療養態度はめちゃくちゃだった。インスリンは打つものの、相変わらずコーヒーには砂糖を三杯入れ、ケーキやまんじゅうを食べたい放題に食べ、タバコもいっこうに減らさない。もともと運動嫌いだから、散歩以外に身体を動かすこともない。おまけに血糖値のチェックさえしなかった。
インスリンの自己注射をしている患者なら、毎日の血糖値チェックは必須である。血糖値が低めのときにインスリンを打つと、低血糖(*4)の発作が起こり、場合によっては昏睡から死に至る危険もあるからだ。しかし、父は自分の体調で判断し、低血糖発作についても、「そんなもん、氷砂糖をなめたらしまいや」と平気な顔をしていた。
そんな状態で十年以上過ごしていたが、天罰覿面というべきか、八十二歳のときに左足の中指と薬指が壊死して、足の裏側が真っ黒になってしまった。糖尿病の合併症で末梢循環不全(手足の血の循環が悪くなる)が起こり、組織が死んで腐るのである。
この状態になると、足の指を切断しなければならない。壊死が広がると切断の範囲も広がるので、通常はできるだけ早く切るのが望ましい。ところが、父が決めた方針は、「もうしばらくようすを見る」だった。
そんなことをしていると、指だけでなく、足首か脛から切らなければならなくなると思ったが、父はあくまで目先の安楽を優先し、病院へ行くことを拒んだ。私は友人の内科医や糖尿病の専門家に相談したが、いずれも一刻も早く治療すべきだと言い、タバコを吸っていると言うと、あきれた顔で「まず禁煙は絶対条件」と口をそろえた。ニコチンには血管収縮作用があるので、喫煙は末梢循環不全を悪化させるからだ。
壊死は徐々に広がり、真っ黒な部分からは悪臭が漂うようになり、痛みも増して、父は歩けなくなった。外出のときには車椅子が必要になったが、それでも父はタバコをやめず、病院にも行こうとはしなかった。そして、窮余の一策として、自分でインスリンの量を少しだけ増やした。
血糖値も測らずインスリンを増やすなど、ふつうでは考えられない暴挙である。私もあきれたが、それがどういう効果を現したのか、それから徐々に壊死が小さくなりだしたのである。浸出液でぐじゅぐじゅだった傷が乾きだして、ついに黒い皮がかさぶたのようになった。それが取れると、下には赤ん坊のようなまっさらの皮膚ができていた。
実に不思議な治癒力で、知人の内科医らは、異口同音に「あり得ない」と言ったが、実際、治ったのだから仕方がない。
足がきれいになった父は、「医者は病気が悪くなった患者ばっかり研究するが、ボクみたいに治療せずによくなった患者を研究したらええのに。そしたら、自然治癒力の秘密がわかるやろう」とうそぶいたが、一理あるのか、ないのか・・・。
コインで白内障の手術を決める
足指の壊死はなんとか克服したが、次は白内障が進んで、ものが見えにくくなってきた。父は「この歳になったら当たり前や」と泰然としていたが、私の妻が治療を勧めた。
「手術を受けた人は、みんな驚くくらいよく見えるようになったと言ってますよ」
父は手術など受けたくないようだったが、嫁が熱心に勧めるので、むげに断りにくかったのだろう。「ほんなら、コインで決めるわ」と、百円玉を取り出して宙に投げた。表が出たら手術を受ける、裏なら受けないと決めて、運を天に任せた。父としては裏が出てほしかっただろうが、残念ながら表が出て、手術を受けることになった。
まずは近所の眼科で診察を受けることになり、私が付き添った。診察した眼科医は、父の白内障があまりに進んでいたため、「よくここまで放っていましたね」とあきれた。
白内障の手術は、白く濁った水晶体を取り替えるだけなので、網膜が健康でなければ手術をしても見えるようにはならない。網膜の検査のために行ったのだが、手前の水晶体が濁りすぎていて、網膜が十分観察できないので、手術の結果はやってみなければわからないということになった。
両眼の手術が必要だったので、四日ほど入院しなければならない。父のいちばんの気がかりは、入院中の禁煙だった。ニコチンガムがいいと聞いたが、父は総入れ歯なのでガムは使えない。ニコチンパッドを買ってきたが、それでは心許ないのか、吸えば先が赤くなり、水蒸気の煙も出る電子タバコを用意して、父はいやいや病院に行った。
手術は無事に成功し、四日間の禁煙にも耐えたが、糖尿病では網膜の血管も循環不全になる合併症があるため、手術してもさほど視力は回復しなかった。
〈後編に続く〉
『g2(ジーツー) vol.12』 24~32ページより抜粋
作家・医師。1955年大阪府生まれ。2003年に『廃用身』(幻冬舎)で作家デビュー後、医療をテーマとした話題作を次々と発表。エッセイ『日本人の死に時』、中村仁一氏との対談『思い通りの死に方』(ともに幻冬舎)などの作品もある。最新刊『モーツァルトとレクター博士の医学講座』(講談社)が好評発売中。
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Contents
●大特集 生と死をみつめて
脳神経外科医・若井晋「12年間の闘病記」
東大教授「妻と認知症を生きる」 阿部崇(ジャーナリスト) 4
延命治療は必要ない---医師の親子が考える「理想の死に方」
元医師の父が選んだ「自然死」 久坂部羊(医師・作家) 24
最晩年 重度認知症治療病棟にて 野村進(ノンフィクションライター) 40
「うつ病」放浪記第二章
患者たちの告白「うつ病になってわかったこと」 工藤美代子(ノンフィクション作家) 66
●徹底分析「危うい橋下政治」
もはや維新も自民も決して保守ではない
「救世主願望」と「決断主義」がもたらすもの 中島岳志(北海道大学大学院准教授) 106
「躍進」維新の狙いを読み解く
橋下政治は日本をどう変えたいのか 村上弘(立命館大学法学部教授) 116
「よそ者、ばか者、若者」が、あえて提案する
「福島第一原発観光地化計画」始動 東浩紀(作家・批評家)+ゲンロン編集部 172
稀代の演出家は出会った人を「舞台」に上げ、人生を変えていった---
1994年「つかこうへい」という世界 一志治夫(ノンフィクション作家) 130
42歳で生涯を閉じた「天才」が、プロになるまで
球童 伊良部秀輝が目覚めた瞬間 田崎健太(ノンフィクション作家) 152
「シンヤは天才画家ダリのようだった」---ノーベル賞受賞者はこうして育った
恩師が明かす山中伸弥教授の「修業時代」 インタビュアー・大野和基(ジャーナリスト) 192
鳥取連続不審死事件で死刑判決
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いじめ自殺事件 被害者母親「執念の6年間」 須賀康(ジャーナリスト) 222
21年間で、16万人から8万人に。辞めさせられる人、見限る人、堕ちる人---
証券マンが消えてゆく 山口義正(ジャーナリスト) 238
●大特集 ネットを動かしているのは誰か
尖閣、竹島「奪還」運動をする人々の「情熱と孤独」
中国・韓国「ネット愛国者」を訪ねて 安田浩一(ジャーナリスト) 258
企業、個人、そして「特定班」「スネーク」が個人データを狙っている
ビッグデータが「あなた」を丸裸にする 森健(ジャーナリスト) 290
5年半でプレミア会員175万人---「寂しい」「暇つぶし」「つながりたい」「主張したい」
ニコニコ動画に宿る「生主」という生き方 渋井哲也(ジャーナリスト) 312
●あの戦争から遠く離れて
長春、瀋陽、大連、旅順---戦争を知らない若者、中国を往く
古市憲寿「満州国と僕」 334
東京大空襲の「指揮者」に勲章授与、被災者・遺族は補償なしで堪え忍べ
戦争経済大国ニッポンの「非情な計算」 斎藤貴男(ジャーナリスト) 356