エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
「内なる適格者主義」という誤診 ——中学と高校のあいだで擦れ違う被害の言語
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
「内なる適格者主義」という誤診 ——中学と高校のあいだで擦れ違う被害の言語
定数外で不合格になった生徒をめぐって、中学校の先生が怒っている。「全員入学させろ」と。高校側は、... 定数外で不合格になった生徒をめぐって、中学校の先生が怒っている。「全員入学させろ」と。高校側は、全員を受け入れれば治安が悪化する、生徒と教員が被害を受けると考えている。そして高校側のこの選別は、しばしば「内なる適格者主義」だと批判される。 この批判は正しいのか。私はしばらく、これを検討していた。 適格者主義、ではない 高校教員の選別の動機を分解すると、そこにあるのは「誰が教育を受けるに値するか」という価値の序列づけではない。「限られたリソースの中で、既存の生徒・教員が受ける被害をどう最小化するか」というリスク管理の論理である。この二つは倫理的に別の回路だ。前者は価値判断、後者は被害の配分にすぎない。 その意味で、「適格者主義」というラベルは、高校教員の主観的な動機を正確に言い当ててはいない。 しかし、機能としては同じものになる ただし、ここに厳しい論点がある。動機がリスク回避であっても、結

