名前を隠して楽しく日記。
16年前に大学のセンセが言ってた
昭和四十年代の終わりから五十年代の初めにかけて、私たち家族は、郊外に造られた大きな団地で暮らしていた。
同じ形をした建物が、少しずつ向きを変えながら並んでいた。四階建てか五階建ての、灰色がかった白い建物だった。廊下の手すりには布団が干され、窓辺には洗濯物が揺れていた。どの棟も似ているのに、子どもたちは自分の棟だけは遠くからでも見分けることができた。
鉄棒と砂場と、色の剥げた滑り台が置かれていた。端にはコンクリートが置かれ、私たちはそれに登ったり、そこを秘密基地にしたりした。地面の多くは土で、走るたびに白い砂ぼこりが立った。
子どもたちだけが、強い日差しの下で遊んでいた。自転車を乗り回す者、地面に蝋石で絵を描く者、蝉の抜け殻を集める者。誰かが家から持ってきた水筒を、みんなで回して飲むこともあった。
肉屋、魚屋、八百屋、文房具屋。店の前には商品を入れた木箱が置かれ、夕方になると買い物かごを下げた人たちが集まった。肉屋の揚げ物の匂いと、魚屋の水の匂いと、八百屋の濡れた段ボールの匂いが、狭い通路に混じっていた。
文房具屋の入口には、子ども向けのくじや小さなおもちゃが並んでいた。色のついたビー玉、紙の着せ替え、銀色の粉が入った絵の具、何に使うのかわからないプラスチックの部品。わずかな小遣いを握りしめ、長い時間迷っている子どもがいつもいた。
野球中継の歓声や、歌番組の音楽や、アニメの主題歌が、開け放した窓から漏れていた。別の家からは、掃除機の音や、食器を洗う音がした。
今思えば、団地ではたくさんの家庭が薄い壁一枚を隔てて暮らしていた。
朝早く出勤する人の足音も、赤ん坊の泣き声も、夫婦喧嘩も、夕飯を呼ぶ声も聞こえた。誰かの生活は、いつも少しだけ外にはみ出していた。
けれど、あのころはそれを窮屈だとは思わなかった。
むしろ、どの窓にも人がいて、どの部屋にも夕飯があり、夜になれば一斉に明かりがともることに、妙な安心を感じていた。
建物の壁が西日に染まり、ベランダの手すりが長い影を落とした。遊び疲れた子どもたちは広場の縁に座り、膝についた土を払った。遠くから、母親たちの呼ぶ声が聞こえた。
「ごはんよ」
「もう帰ってきなさい」
それまで名前も知らずに遊んでいた子どもたちは、それぞれ別の棟へ帰っていった。
焼いた魚、カレー、煮物、炒めた玉ねぎ。階を上がるたびに匂いが変わり、どこかの家のラジオが聞こえた。踊り場の小さな窓からは、広場と、その向こうに並ぶ団地の棟が見えた。
夜になると、窓の明かりが四角く浮かんだ。
レースのカーテン越しに人影が動き、テレビの光が壁にちらついた。広場にはもう誰もいなかったが、昼間の遊びの跡だけが残っていた。砂場に忘れられた赤いスコップや、地面に描かれた丸や線が、街灯の下にぼんやり見えていた。
コンクリートはまだ昼間の熱を残していた。遠くで電車が走り、窓の明かりが暗闇の中を横切っていった。どこかの家から蚊取り線香の匂いが漂い、下の植え込みでは虫が鳴いていた。
空を見上げても、星はそれほど多くなかった。
それでも、あのころの夜空は、今よりずっと広かったように思う。
団地はやがて古くなった。
子どもたちは大人になり、家族は引っ越し、商店は一軒ずつ閉じていった。広場の遊具も撤去され、建物の壁は塗り替えられたと聞いた。
もう、昔の景色は残っていないのかもしれない。
それでも夏の夕暮れ、遠くから子どもを呼ぶ声を聞くと、私はあの団地を思いだす。
西日に染まった壁。
一斉に明かりがともっていく窓。
けれど、あの四角い窓の一つ一つに、確かに誰かの暮らしがあった。
そして私も、その明かりの中にいた。
これだな
本当なら利害を共有してるファミリー内で決めれば良い話を、ファミリー以外の外野だけで決めなきゃいけないという点が既に異常。そこに口を入れたがるような人間は奇妙な思想家かカルトしかいない。
たとえば人間の腕の裏側とか毛生えてないけど「よっ腕の裏側ハゲてるねー」みたいなことは言わないじゃん?
人間のハゲ、というとコンプラに引っかかりそうだけど、人間の髪キャンセル界隈の人たちが仲間を作りたくてそう呼んでるのかな?
あぁシュルツのオーガノイドね
胸さわぎの腰つき
おめでとうやで
ジャップのお祝い欲は異常
遅くなったけどおめでとう🎂
正確には一人とカウンター()のつもりで書いてるもう一人やな